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1999/12/10
■OECD事務次長 近藤 誠一
最近グッド・ガバナンスという言葉を目にすることが多い。この言葉は毎日のように新聞紙上をにぎわし、またセミナーやシンポジウムでも繰り返し聞かれる。OECDでも、域外国との協力の柱の一つとして、このガバナンスを取り上げている。では、このガバナンスとは一体何なのか。
このガバナンスという英語には、ふさわしい日本語が存在しない。普通は「統治」と訳されることが多いが、いかにも政府による支配といった意味合いを感じさせ、決して本来の意味を正確に伝えていない。ガバナンスとは、民主主義や市場経済を円滑に機能させるに必要な政策、法体系、組織の運営形態、組織同士や市民との関係などを総称する言葉といって良いであろう。この二つの普遍的原理が最大の効果を発揮するために必要な、官民双方を含む社会全体のシステムとも言える。
では何故最近になってこうした概念が重要になってきたのであろうか。それはグローバリゼーションと、冷戦の終了の影響である。最近までOECD諸国に住む約10億人にとってのシステムでしかなかった市場経済が、冷戦の終了とともに大幅に拡大し、その規模は50億人にも達するようになった。同時に民間資本の規模が急増し、政府のコントロールの効かない膨大な資金(為替市場だけで一日に日本のGDPの4分の1に達するといわれる)がこの世界市場を自由に動き回るようになった。情報革命もあって、一人の投資家の一つの判断が雪だるま式に連鎖反応を起こし、それが一国をつぶすほどの影響を持ち得るようになったのである。
この結果、市場が適正に機能するには、経済行動を律する明確な共通ルールが必要なこと、市場参加者にはその下で活動するに相応しい行動規準がなければならないこと、そして規制当局にはこうしたルールや行動規準が守られているか否かを監視する意思と能力が求められることがこれまで以上に明らかとなった。新興途上国や共産主義から市場経済に移行しつつある国が、一挙に世界の市場に自らを開放したものの、こうしたことへの準備体制が極めて不充分であったことが証明されたのが、先般のアジア危機であった。
またソ連の崩壊により、共産主義からの侵略という脅威から解放された結果、市民は雇用不安、環境破壊、医療保険などの身近な問題に木目細かく答えてくれることを政府に期待するようになった。そして選挙で選ばれた国会議員や地方議員、さらにマスコミは必ずしもこうした期待に十分応えてはくれぬことを感じ、次第に市民社会(シビル・ソサエティー)を形成し、政府に直接要求をつきつけるようになった。そしてそうした市民の要求に政府や大企業が応える体制になっているか否かを、市場はその国や企業のリスク判断の重要な要素とみなすようになった。
では政府や企業は一体何をすれば良いのか。どうすれば市場と市民から信頼を得ることができるのか。すなわちガバナンスを構成する基本的要素は何か。いくつかを順不同で列挙すれば以下の通りである。
- 法の支配
- 自由競争や企業家精神を奨励する枠組み
- 透明性や説明責任(アカウンタビリティー)の体制のとれた企業(コーポレート・ガバナンス)
- 効率的で透明な政府部門
- 汚職防止体制
- 環境保護対策の整備
こうした体制が不充分な社会は、アラン・ブラインダー教授の言う「市場の反撃」を受け、そして市民社会からそっぽを向かれる。
こうしたガバナンス・システムの重要性の強調は、アメリカの覇権主義であるとの見方がある。ガバナンスとはアメリカのシステムに他ならず、他国の文化を無視してそれを強要するのは許せないと。確かに最近のアメリカの自信過剰とお節介は目に余る。しかし、いちはやくグローバリゼーションに自分を合わせて成功したアメリカが自己の国益に基づいて行動するのは当然であり、そのことと、グローバリゼーションを自分にとって有利に活用するために、各国が必要なシステムを構築することの必要性とを混同してはならない。いかなるシステムにもその国・地域の特性が反映されるのは当然である。しかしその違いを超えた、普遍的な原則がある。それがガバナンスなのである。
日本ではすでにコーポレート・ガバナンスは「企業統治」と訳され、その概念は徐々に定着しつつあるように見うけられる。ガバナンスという概念の内容が次第に理解され、それによって日本語の「統治」の意味が拡大するのであれば、それは結構なことだろう。それは日本人にとってこれまで存在していなかった概念が理解され、生活の一部になること、すなわち日本人の知的進歩と、世界での地位の向上を意味するからである。
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