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この数カ月間,私は世界中の専門家とともにニューエコノミーの問題について多くの議論を重ねてきた。よく提起される問題はこうである――ニューエコノミーといったものは存在するのか? 「おそらく」,というのが一応の一致した答である。メディアによる誇張といった側面も存在するだろうが,その見出しの背後に実体があるのも確かである。OECDチーフ・エコノミストのIgnazio
ViscoがこのOECD Observer特集号で指摘するところでは,特に生産性の分野で,ニューエコノミーによって部分的に説明が可能となる動きがついに経済データにも現れたという。
このニューエコノミーの波の評価にあたってほとんどの人が言及するのはアメリカである。多くの人が,米国現象――つまり中断のない,歴史的に最も長期の拡大,高率の生産性の上昇,低いインフレ率と失業率――は部分的には,情報通信技術(ICT)の普及と,その効果が技術部門そのものに限らず,新旧の工業への技術の応用にまで浸透した結果であるとする。
例えば,インターネットをとってみよう。それはほかのどの国よりもアメリカで広範に利用されており,1999年9月から2000年3月までの間に,アメリカは国民1人当たりでドイツと日本とイギリスを合わせたよりも2倍も多いインターネット・ホストをストックに追加した。1990年から1996年までの間に,アメリカのICT投資は全産出額の増加率2.8%のうち0.4%を占めたと推計されている。これは,絶対値でも相対値でもG7のほかのどの国よりも遙かに大きい。
以上のような数字は,ニューエコノミーの背後にはICTがあるという議論を説得力のあるものにする。しかし,疑問は知性の兆しである,とソクラテスが言っている。それはまた,適切な質問を発し,進歩を実現し,賢明な法律と政策を定めるための前提である。それだけにこの議論は厳密に検討してみなければならない。ICTだけがニューエコノミーを説明するのだろうか。私は,個人的には懐疑的である。ICTは,明らかに,情報の流れや生産性の向上にとって重要である。
しかし,過去の多くの「転換的な」技術もそうだった。例えば,かつて紡績産業に革命をもたらしたジェニー紡機というものがあった。しかしそれは,用途が特殊だったために産業全般には普及しなかった。電気モーターが転換的だったのは,先行した蒸気機関と同じように,その用途が直接の目的を遙かに超えたからである。結局は蒸気機関もまた,スタンリー蒸気自動車によって自動車時代に入ったのだが! Alan
Greenspanがよくやるように,こう指摘しておくのも面白い――発電機は,工場で工業を転換するのに数十年を要した!
今日我々の前にあるのが真に転換的な技術であることはほとんど疑いようがない。電子商取引は,消費者であれ,生産者であれ,政府であれ,我々すべてに重大な影響を及ぼす。労働や職場といった概念を考え直す必要がある。ニューエコノミーの中心にある力は,そのスピードである。それは,情報や金融が地球上を回る速度が驚くばかりで,ときには恐ろしくさえある,というだけのことではない。技術を導入し,普及させ,習熟するスピードが成否を分ける根本的な要素となっているのである。このことが,この数年間でアメリカがあれほど驚異的な――追随不可能とはいえないまでも――前進を実現した理由の一部を説明しよう。根津利三郎が電子商取引に関する論文で強調しているように,技術はどこにも存在したが,必ずしもすべてが明らかになっているわけではない多くの理由によって,アメリカがそれを最初に応用した。そして現在,技術志向の日本を含む多くの国が懸命に追いつこうとしている。
当然,アメリカ経済の成功と9年間に及ぶその拡大の背後には,ICTの存在と拡大以外の要素がある。アメリカの経験に習おうとする者は,私の判断では,急いでこの驚異的な新しい技術に投資し,これを普及させるだけでは,その目的を達成できないだろう。
ICTが長期的な成長に具体的に貢献できるためには,市場が機能しなければならず,非支持的な規制の枠組みによってそれが阻害されてはならない。マクロ経済政策が支持的であることが必要である。特に,価格の安定を維持することをその任務とする通貨政策が重要である。その結果,金利が低く維持され,そのことによって自己資本により多くの利益と機会が提供される。
起業家の「アニマル・スピリッツ」――ケインズの言葉を使えば――が適切な枠組み的条件によって奨励されなければならず,起業家がベンチャーキャピタルを利用できることが必要である。もちろん,ベンチャーキャピタル提供者のための撤収戦略もまた存在しなければならない。それゆえに,効果的に機能し,適切に規制された金融市場と証券市場が非常に重要である。
起業家の成功は簡単ではない。これは,多くの失敗が予想されることを意味する。失敗はダイナミックなプロセスの一部として許容されなければならない。これは文化なのだろうか? 興味深い重要な疑問である。たしかに北アメリカでは,貸し手や投資家によるこのような寛容はかなりの程度まで確立されているように見える。ビジネスで失敗しても,透明性と誠実さが確保されていれば,排斥されることはない。敗北者は,もう一度始めることができ,いつでもそうすることができる。しかしOECDのほかの諸国では必ずしもそうではない。誠実な起業家は新しいスタートを切ることを妨げられてはならない。彼らは経済成長の諸要素を結合する触媒である。このように危険を冒す者がいなければ,世界はせいぜいうまくいってもまだ19世紀の技術でうろついていたことだろう。
アメリカのほかの特質としては,ビジネスの開始を妨げる行政的障壁が低いこと,効率的な資本市場,開放的で競争的な財貨とサービスの市場などがある。アメリカは,科学と産業の結合を積極的に促進し,移民がもたらす新しい考え方に対して開放的で,労働の流動性と職場の柔軟性を積極的に評価する。これは職の不安定と混同されてはならない。要するに,ニューエコノミーをもたらし,アメリカの成功をもたらしたのは,技術だけではないのである。
アメリカはOECDのなかで最大の国である。しかし,しばし最小の国の一つ,アイルランドを見てみよう。この国が最貧の国の一つではなくなったのはそれほど昔のことではない。アイルランドは,この数年,OECDでは最も経済成長が急速な国であり,現在では人口当たりGDPではOECDの最上位10カ国の一つである。アイルランドはまた世界の主要なソフトウェア輸出国の一つでもある。どうしてこうなったのか? ある者は投資を引き寄せる租税政策を指摘するが,同じ租税政策をとりながらも同じ結果を得ていない国もある。EU基金が指摘されることもあるが,同じ基金を得ながらも同じように経済を転換できていない国も存在する。英語と伝統的なアメリカとの結びつきも財産だが,これは20年前も変わらなかった。今日の安定したビジネス環境を作り出したのは,技能に対する投資,あるいは1980年代以降の政府の堅実な政策運営と労働組合および雇用者団体との協力だっただろうか? 答は,こうした要素すべての結合のうちにあるようである。要するに,適切な政策は,時間とともに自ずと強化されてゆく優位性を育むのだ。
アイルランドのような国は,無重力で全地球的に応用されるICTの登場がなければこのように成功しなかった,というのは事実かもしれない。それでもこの国の例は,政策が正しければ,ニューエコノミーがどれだけ巨大な機会を提供するかを強調する。
それゆえに,ニューエコノミーはもっぱらアメリカだけの問題ではないのだ。そのグローバルな規模そのものがその活力の一部を構成している。我々は事実上「地球村」に住んでいる。Marshall
McLuhanが40年あまり前に発明したこの言葉は,最初は独創的で,やがて私にとっては退屈な常套句となったが,今では実際に我々の時代の現実を示している。
国連人権高等弁務官のMary Robinsonは,このOECD Observer 特集号に寄せた論文で,ニューエコノミーには恵まれない人々の世代全体のために解放の力として機能する可能性がある,と指摘している。すでに我々は,先進工業諸国においても開発途上諸国においても,ICTがごく普通の人に新しいビジネス機会を与えているのを見ている。賢明に活用されれば,それは世界中の人々に経済成長に参加する機会と表現の新しい手段を提供し,その過程で彼らが技能と取引を獲得することを可能にする。このような機会が失われないようにするために,政策策定者は,ビジネス界や労働組合,市民社会などと協力する重大な責任を負っている。ICTとネットワークを通じて,我々は今や事実上地球村のなかに入っている。ここから出ることは許されない。
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