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資本主義は様々な形態をとり,それぞれが深いルーツをもっている。ドイツとアメリカのまったく異なった例から何を学ぶことができるか?
資本主義は勝利した。今や核心的な問題は,どのタイプの資本主義が支配的となるか,である。製品市場と金融市場の急速なグローバリゼーションとかつてなく均質的な新技術の登場を前提として,資本主義の新しいグローバルなモデルはどのような展望を有するのか? ほかのプロセスもまた変化の加速化を強いている。世界市場の統合と各国経済の相互依存の進行は,各国に固有の制度と政策の余地をますます小さくしており,貿易と資本市場の自由化は,競争力を維持しようとする諸国にとって労働市場と社会的市場のさらなる自由化を不可欠としている。こうした観点から,自由主義経済の原則に立って資本主義の支配的モデルへの収斂の必要性を受け入れる用意がOECD各国にあるかどうか,評価してみる必要がある。本論文は,資本主義モデルのこのような全体的な収斂が本当に不可避であるのか,あるいはそもそも望ましいのかを,過去の分岐の原因とそれが今なおもつ意味を検討することによって,考察しようとする。
分岐の核心の一つは,社会的保護のレベルと労働市場の構造に関連する。大陸ヨーロッパ諸国のほとんどが寛容な福祉国家とそれぞれに固有の社会モデルの基本的諸要素を維持しようとするのに対して,アングロサクソンの経済は,低い税率と,求職の強力なインセンティブを含むフレキシブルな労働市場を伴う,より「名残り的」な福祉国家を支持している。このような分岐は,しばしば,主として一方における経済的効率と他方における社会的公正の間の適切なトレードオフに関する政治的な考え方の相違に基づくと説明される――リベラル市場,社会的市場,あるいは「第3の道」といった概念は,それぞれ違ったトレードオフを表現する。しかし,本論文で検討するように,各国モデル間の相違はまた,経済効率それ自身がどのようにすれば最もよく実現されるかをめぐる広範な見解の相違をも反映している。それは,一部は当の経済の相対的優位性の相違に基づいている。
アリストテレスは,美徳は「2つの悪徳の中間」にあると言い,啓蒙の時代以降,民主主義国家のほとんどすべてが,意識的にか無意識的にか,2つの要素の間でバランスを維持しようと試みてきた――集団的行動と個人の自由の間で,公共の善の追求のための協力と競争の創造的な力との間で,そして社会的価値の尊重と個人の利己的利益の追求の間で。経済学とビジネスの分野では,社会的公正と経済的効率の間の最適のトレードオフだけでなく,資本主義それ自体の最も効率的なモデルを求めて,微妙なバランスが追求されてきた。
効率的な市場を基礎とした資本主義が,市場での交換のシステムや所有権や法の支配以上のものを必要としているということは,ずっと前から理解されてきた。経済主体が,費用のかかる(そして究極的には無益な)「完璧な」法的契約を求めて重い負担を強いられることなく,「スポット取引」以上の持続的な関係を取り結ぶためには,信頼を生み出し,ご都合主義の不安を取り除く社会的規範が不可欠である。組織的な構造もまた,それが例えば協力的な技術革新やチームワークをどの程度可能とするかに応じて,経済効率に重大な影響を及ぼす。こうしたものがなければ,市場は経済的,社会的価値の最大化にいとも簡単に失敗してしまう。
例えば,過剰な公害が生み出される――その価値が市場価格に反映されないためである。あるいは,従業員の訓練はほとんどなされず,サプライヤーによる特定顧客向けの投資も行われない――協力のメカニズムが存在しなければあまりにも危険だからである。しかし,アリストテレスなら指摘したに違いないことだが,経済主体の間の過剰な協力は,過小な協力と同じように有害でありうる――それは,社会的,経済的な硬直性とインセンティブの欠如をもたらしかねない。協力とフレキシビリティの間で,公共の善と個人の善の間で,バランスが維持されなければならない。
過去50年間に,このようなバランスを実現する異なった道を追求して多数の様々な資本主義モデルが登場した。この展開は,もちろん,ある程度までそれまでの経路の反映だった――制度的構造や経済的専門化,政治的連合などはそれまでに存在した相違を反映していた。OECD諸国の大半(そして一部の地域)はそれぞれが区別可能な資本主義の型をもっているが,2つのモデル(しばしばいくらか理想化された形で)が本質的に異なった2つのアプローチを典型的に示している。
その一つはアメリカ・モデルで,これはアングロサクソン諸国に見られる自由主義市場アプローチを代表する。もう一つはドイツ・モデルで,これは,例えばスウェーデンや日本などのいわゆる「調整型」市場経済とも多くの特徴を共有している。もちろん,フランスのようないわばハイブリッド型のシステムもある。しかし本論文の議論は,簡潔を旨として,ドイツとアメリカの原型的モデルの図式的な比較に限定される。
いずれのモデルも,自由貿易や,市場で決定される製品価格,自立的な通貨政策などを広く受け入れるという点で共通している。
しかし,アメリカ・モデルが主として経済主体による市場での相互調整に依拠し,市場の機能不良には欠落している新しい市場要因(例えば,売買可能な公害排出権や特許,その他)を追加することで対処しようとするのに対して,ドイツ・モデルは,多くの分野において,寛大な福祉保護のシステムによって補完される非市場的な相互調整に依拠する。従って,例えばドイツには広範囲に及ぶ効果的な職業訓練のシステムが存在するが,それは様々な協力関係によって支えられている。 規格の制定や「ただ乗り」防止のための企業間の協力,集団賃金交渉や共同決定(工場評議会や取締役会への労働者参加など主として法律で定められたシステムを介して)を通じた企業と従業員の間の協力,これら社会的パートナーと教育システムの間の協力。研究開発の分野にも企業間の広範囲の協力(国が資金を出す研究機関と一体となった)が存在する。
従業員と企業はいずれも,共同決定や公式の事業組織,「ハウスバンク」や株式相互持ち合いからの長期資本の提供によって育まれた,信頼を基礎とする特別な関係に基づく大規模な投資や技術移転に積極的である。こうしたことすべては,「名残り的」な福祉国家や,企業間の競争関係やフレキシブルな労働市場,経営の独立性,一般教育,市場で決定される技術企画,資本市場による資金調達の重視といったアメリカ・モデルの特徴とは著しい対照をなす。
もちろん,アメリカの企業は,しばしば堅固な企業内「文化」を創造することによって従業員のやる気を起こさせることに成功し,株主の利益の重視は市場の要求との見事なまでの調和を実現することができる。広範囲に及ぶ法的義務や株主の積極的行動,そして場合によっては「社会監査」は,アメリカの企業セクターの利益をより広範な社会的目標と調和させることを可能にする。
これまでの数十年間,経済的なショックや技術変化,資本市場の国際化などに対して様々なモデルの示したフレキシビリティの程度が非常に注目されてきた。ドイツでは,ほかのヨーロッパ諸国の多くと同じように,高水準の雇用保護がその他の労働の硬直性や需要ショックと作用しあって,労働市場における「インサイダー・アウトサイダー」問題を生みだした。
つまり,就業者の賃金を失業者を職場に復帰させるに十分なレベルまで引き下げることができなかったのである。しかも,大規模な資本の持ち合い,銀行による長期融資,共同決定(投資と技術革新に対する長期的アプローチを支える中心的な要素)などもまた,アメリカで見られたように大規模かつ迅速に資本と資源を新しい技術に再配分するのを妨げてきた。これに対して,アングロサクソンのモデルでは,特に資金を依存する資本市場の厳格さによって,フレキシビリティがまさにその核心のところにビルトインされている。目に見える短期的な見返りが強調される(ハイテク企業の立ち上げを別として)ために,企業は製品市場や技術の発展にただちに反応できる高度のフレキシビリティを必要としている。それゆえに彼らは,経営の独立性と雇用と解雇の権限をとりわけ重視する。企業管理のための市場は,特に,フレキシビリティの必要性を高めている。
それでは,国際資本市場からの資金調達と企業管理のための市場の拡大は,ドイツに対してどのように影響すると考えられるか? それは,フレキシビリティのいっそうの拡大の必要性を意味するだろうか? そしてもしドイツの企業が資本市場や敵対的買収によってもっと短期的な問題に焦点を当てることを強制されるとすれば,それはドイツ・モデルの「参加」特徴の多くが有害な「硬直性」と見られようになることを意味するのか? 多くの評論家が見るところ,ドイツその他の類似のモデルはもはや参加とフレキシビリティの間の最適のトレードオフでないことは明らかである。ドイツ・モデルは,資金調達の国際化や技術革命,一貫した高率の失業などに直面して,諸制度の新しい組み合わせを必要としているように思われる――例えば,職業訓練のシステムを維持しながらも,これを労働市場のいっそうのフレキシビリティと結びつけることである。こうした考え方は,中心的な制度や行為主体がもはや各国に縛りつけられていない現在,欧州レベルや国際レベルで様々な国のモデルの最良の部分を組み合わせた新しい制度的妥協が求められている,ということを示唆している。
しかしながら,新しいハイブリッド・モデル――精密に組み合わされた妥協のシステム――のスムーズな発展は,様々な理由によって困難であると考えられる。そう期待することは,どのモデルにあっても様々な要素がいかに相互に依存しあっているかを無視することである。
制度的な不連続を持ち込むことなしにほかのモデルから好みの要素だけを選んで取り込む余地は限られている。こうして例えば,自由主義的な資本市場とフレキシブルな労働法をもつ諸国が,一般的に,職業訓練や段階的な技術革新,長期的な投資にあまり成功していないのは,偶然ではないのである。 みずからの展望を確信できない労働者は極めて特殊的な(一般的なものとは対極にある)職業訓練に投資しようとしないだろうし,企業管理のための市場で営業する企業は,企業間の技術移転の協力にはより慎重で,短期的な株主の利益の最大化により積極的となろう。 従って,ドイツ・モデルが相互依存的な諸要素の相互に強化し合う複雑なシステムである限りにおいて,敵対的買収の受け入れや従業員保護の縮小といった基本的な諸要素の変更は,新しい別の制度的均衡への根本的な移行を意味する可能性がある。 相互補完的な諸要素の組み合わせからたえず増大する見返りを得ている複雑なシステムの一般的な特徴は,いくつかの核心的な要素の変化が非連続的な発展と新しい自己補強的な均衡への突然の「飛躍」へとつながりうることである。このような変化のタイミングと規模は,極めて,予測が困難である。
しかしながら同時に,大規模な改革は関係するモデル全体を根本的に解体するという事実は,このモデルから利益を得ている中心的主体がその維持のために最大限に努力するはずだということを意味する。これは,それぞれのモデルがその国に固有の専門性の維持のための機能的要件を満たしている限りにおいて,特に言えることである。
一般に各国は,それぞれの制度的構造に適合した専門性を発展させており,その逆もまた真である。このことが各国の中心的行為主体に,それぞれの専門性の競争力にとって不可欠と見なされる制度的構造の維持に強力な執着を与える。強力なベンチャーキャピタルや一般教育のシステム,フレキシブルな労働法などを有するアメリカの制度的な枠組みは,急激な技術革新を特徴とするハイテク産業を基本とした経済に非常によく適合している。しかし同様に,固有の職業訓練と長期的協力のシステムをもつドイツ・モデルは,段階的な技術革新と長期的な投資,顧客の要求に応じた製品の生産といったエンジニアリング産業に適している。
いずれのシステムにあっても,全面的な変化はそれぞれの国の比較優位の分野を弱体化させよう。しかしこのことは,その国の優先的な専門分野がほかの国から挑戦を受けている場合に,あるいは中心的な行為主体(国際的な投資家のように)がその国に縛られず,従ってシステムの利害を共有していない場合に,変化を求める圧力を妨げるものではない。
この分野において処方箋を書くことを非常に困難にしているのは,それぞれの資本主義モデルの様々な特徴が相互に依存しあい,各国の固有の専門分野の機能的要件が相違していることである。各国の資本主義モデルは,それぞれの歴史的な政治的妥協と中核的な社会的諸価値を反映しているだけでなく,各国の比較優位の基礎そのものの一部をも表現している可能性がある。各国の相違の消滅は世界経済からその活力と多様性の一部を奪ってしまうおそれがある。世界経済の国際的な主体が,異なった資本主義モデルの比較優位を除去するのではなく,逆に活用しようとしていると期待させる経済的な,そして民主主義的な十分な理由が存在する。現代のグローバルな経済の要求に適合した,フレキシビリティと協力の間の新しいバランスを実現しようとすれば,ほとんどのモデルにおいて何らかの――おそらくは大規模な――変化が必要であり,あるいは不可避でさえある。
しかし,18世紀のドイツの哲学者ヘルダーが主張したように,それぞれの国が自分自身の歌を歌い,自分自身の固有の歴史的リズムに従って発展することが重要なのである。普遍主義の論理に対するヘルダーの懐疑論を今日の文脈のなかで考えてみれば,それは,国際資本市場がEU以上に各国の一定の相互補完性を尊重しなければならないことを示唆している。各国は,明日のグローバルな経済にいかに全面的に参加するにせよ,経済効率を実現する独自の道を見出さなければならない。
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