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市民社会と開発途上諸国がそれぞれの自己主張を強めている。多国間主義を妨げることなく彼らの関心に応えることが,政策立案者にとって大きな試練となる。
シアトルの街頭で催涙ガスがまだ乾ききらず,デモ隊の叫び声がまだかすかにこだましているかのときに,パリのOECD本部の入口階段のところであるカフェで「失敗は進歩を生み出すことができるか?」をテーマとする哲学的な討論集会が開かれた。答は明らかだと思われる。というのも,太古の昔から人類は試行錯誤のプロセスを経ることによってのみ進化できたからである。多国間貿易システムもまた例外ではない。目標が達成されず,結果が期待を下回ることはいつでもある。
だが,シアトルの「失敗」はどのような前進をもたらすことができるのか? そもそもシアトルは失敗だったのか? そうだったとして,それは1982年のGATT閣僚会議以上に深刻な失敗だったのだろうか? あのときは多国間交渉の新しいラウンドを発足させることができなかった(実際,ウルグアイ・ラウンドの開始まで更に4年間が必要になった)。あるいは,1988年のモントリオール,1990年のブリュッセル以上に? このいずれも,ウルグアイ・ラウンドの終結を含めて目標を達成することができなかった。
シアトル会議の際立った特徴は,メディアの期待が会議参加者のそれよりも明らかに大きかったことである。確かに,先進工業諸国の間には見解の相違があった。しかしその失敗はメディアが描き出したほど大きなものではなかった。なぜ,結果が出なかったことがそれほど重視されるのか?――実際にはシアトル会議は,その論争の中で2つの重要な勢力に世論の注目を喚起することができたというのに。つまり,各国政府の耳に届くほど十分声高に抗議行動を展開した市民社会と,そして開発途上諸国である。この両者がともに,ミレニアム・ラウンドの頓挫に大きく貢献した。
この後者のグループが重要である。今後の多国間交渉やそしてその組織の仕方は,開発途上諸国の代表をいかにして積極的に交渉に参加させるか,彼らの期待と利益をいかにして考慮するかにかかっている。それは,開発途上諸国が多国間貿易システムのまったくの新参者だからではない。彼らは,そもそもの最初から開発と交渉のプロセスに参加してきた。ただし,少数派として,あるいはごく少数だけが議事の中で発言権を与えられて(あるいは今や悪評の「舞台裏」への出入りを認められて)のことにすぎなかった。数は少なかったとはいえ,その参加が効果をあげ,彼らの見解が反映されたという意味で,こうした諸国の参加は極めて重要だった。いくつかの名前を挙げれば,インド,ブラジル,エジプト,モロッコといった諸国は,バングラデシュ,エルサルバドル,タンザニアやジャマイカといった国々とともに,GATTとその後継者WTOの仕事に常に積極的に参加してきた。それでも認めなければならないのは,比較的微妙な交渉はほとんどが「4人組」と呼ばれる主要貿易パートナー,つまり,EU,アメリカ,日本,カナダによって支配されてきたことである。
今日表明されている不満は,実質と形式の両方を問題としている。実質面では,ハバナ憲章からGATT,そしてWTOへと国際貿易体制が発展してゆく過程で,開発途上諸国の利害は,普通は,先進工業諸国によって先進工業諸国のために制定された規則に対する「免除条項」によって考慮されてきた(東京ラウンド・コードの「アラカルト」加盟資格やマラケシュ合意の移行期間)。重層的でグローバルな結びつきをもった世界に2つの異なった貿易制度を設けることは適切でないと考えられる以上,多くのルールは開発の水準に応じて別々に適用される。この差別的な特別扱いはこれからも維持されるべきである。
市場アクセス関連を含めて,開発を直接的に推進するルールの決定にあたっては,目標志向を明確化することが等しく重要である。この観点からは,「開発途上諸国」という用語の慎重な再検討が必要である。この範疇に入れられるべきことを主張しながらも相対的に豊かな国は,同じ範疇の中の最も貧しい諸国に対して実質的な責任を負っているからである。OECDは,こうした諸問題に関するその考え方をWTOに反映させようとする。特に,過去及び将来の貿易の自由化やルールの定義が開発途上諸国に及ぼす影響の問題が重要である。
形式に関する不満について言えば,WTO加盟国の中で移行期諸国と開発途上諸国の数が増えた――いまや136カ国中113カ国を占めて圧倒的な多数派を構成する――ことは,討論の組織方法や会議参加資格の限定(数の制限であって,秘密にするという意味ではない)が考慮されるべきことを意味している。WTOとMichael
Moore事務総長が,現在この問題に取り組んでいる。1980年代のCG−18のような組織の復活がその一つの可能性である。それは,当時は純粋に諮問的な機関だったが,現在ではWTOの新しい構成を適切に反映していることが必要である。もう一つの可能性は,会議参加資格の輪番制である。かつて一種の経済安全保障理事会の設立が提案されたことがあるが,これは改めて検討されるに値しよう。
シアトルで(そしてのちにワシントンで)提起されたもう一つの問題は,一見してグローバリゼーションが人間無視に傾いているのではないかという市民の不安である。それは,政府と多国籍企業のあいまいな結合体による陰謀の結果と見なされている。分析の誤り,あるいは国際組織の非民主的本質や多国籍企業(ついでながら,彼らは政府の制定する,あるいはWTOの施行するルールを順守しなければならない)の力に関する悪意ある議論を別にすれば,こうした市民の見解は,最も声高な批判者が実は当の制度から最も利益を得ている場合でさえ,しばしば利他的で疑いもなく道義的である。地球環境を保護し,生活水準と労働条件を引き上げることは,無視されてはならない賞賛されるべき目標である。問題は,多くの場合,こうした目標を推進できると考えられている人々が,最良の場合でも新植民地主義的であるとして,最悪の場合は保護主義的であるとして,これを拒否していることである。
それゆえに,地球の全般的福祉に大きく貢献しうるこうした考えを拒否するのではなく,それをWTOの法的秩序にいかにして機能的に組み込むべきか,あるいは組み込むことができるかが,真の問題となる。強調されるべきは,WTOの現在の法的システムが権利と義務のバランスを基礎としていることである。加盟国は,紛争仲裁手続きによって義務を履行していないと判断されれば,その状態を是正する義務を負う。制裁/補償の実施は,ルール違反が貿易をどれだけ阻害したかによって決められる。WTOの法令には,道徳的ないし社会的な侵害という概念は存在しない。現行の法律的枠組みの中では,道徳的概念を取り上げることはおそらく不可能である。
しかしこのことは,WTOがそうした概念を全面的に無視すべきだという意味ではない。WTOの環境的,社会的な目標が認識されるようになった現在においては,特にそうである。2つのアプローチが可能である。第1は,WTO内部でこの問題を政治的に検討することである。その際の基礎となるのは,当該の問題がWTOの法的秩序ないし紛争仲裁手続きの枠内で認められる制裁/認可取り消しのシステムの対象外であることが明確に認識されることである。OECDが採用している「仲間うちの圧力」を利用したこの政治的な再検討は,その他の関係機関との密接な協力のもとで実施されるべきである。それは,おそらくはこれら諸機関がWTOのために作成する報告書に基づいて行われる。このやり方は,例えばILOとの間で構想されたような協力の精神と一致する。第2のアプローチは,国内的,国際的な両方のレベルで各国政府に直接的に依拠することである。そのための基礎となるのは,適切なガバナンスと,国際レベルで普遍的に承認されている一般原則と一致した政策である。
会議室の中であれ,街頭であれ,シアトルで表明された考え方に共通する目標は,すべての人間のための開発である。これには環境と労働者と消費者の保護が含まれる。しかし,公的であれ,私的であれ,「ジャングルの掟」を否定するルールによって機会の平等を実現しようとすることも,これに劣らず倫理にかなう。結局のところ,これこそが多国間主義の根本的な目標にほかならない。シアトルで要求された諸目標を順位付けして,他のものから自然に出てくる目標がないかどうかを検討することは有益であろう。そして,過去と現在の諸研究が示唆するように,開発の根源には個々人と社会全体の福祉がある。将来の努力は,この目標のあらゆる側面――市場へのアクセス,機会の均等,法令の順守――に焦点を当てなければならない。正当な道徳的目標がこれに続く。実際,説得やインセンティブ,更には環境や社会や人権にかかわる諸問題に対する認識水準を高める教育といったツールは,強制や対決よりも遙かに効果的である。
開発の根本的な重要性について教訓を学び,開発途上諸国自身の,特にその中で最も貧しい諸国の期待に応える適切な措置がとられるべきだとすれば,シアトルは失敗ではないだろう。単なるスタートの誤りだったのである。OECDは,次の出発を本物とするために,必要とされる掛け橋の建設に組織として助力を惜しまないであろう。
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