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伝統的にわれわれは,貧困を生活手段の不足と考えてきた。たしかに,部分的にはその通りである。生活手段がなければ,人はその最も基礎的な物質的必要さえ満たすことができない。しかし,貧困のもっと意味のある定義は,能力の剥奪を基礎としている。これは,ノーベル賞受賞者アマルティア・センが提唱し,国連開発プログラムの『1997年度人間開発報告書』が「人間的貧困」と呼んで定式化した概念である。能力の剥奪は,人々が社会で全面的な役割を果たせないこと,経済的に不活性であること,紛争や差別によって周縁化されていることを意味する。彼らは所得を欠くが,金銭を与えるだけでは彼らを剥奪状態から引き上げるには不十分である。いずれにせよ,無力とされることは生活手段を稼ぐ能力を人々から奪う。
国連開発プログラムの『人間開発報告書』や,最近では『2000/2001年度世界開発報告書』のためになされた「貧者の声Voices
of Poor」に関する研究で明らかにされたように,貧者自身はしばしば非物質的な剥奪の重要性を指摘する。彼らはしばしば自身の境遇をこの言葉で定義する。「カネがない」ことではなく,権利がないことである。資源は重要であり,一定の経済的ダイナミズムが貧困対策を進めるための前提条件となる。しかし,経済のエンジンがかかっていても,トランスミッションが故障しているかもしれない。そしてしばしば,ガバナンスが欠けている環であることが多い。
今日の開発途上世界においては,全体としての資源の不足は一般に主要な障害ではなく,むしろその使用方法に問題がある。貧困の克服に向けた動きの遅い国では,基礎的な社会サービスに向けられる公共支出が最適の方法では使われておらず,必要としている人々に常に届いているとは言えない。健全なガバナンスは資源と必要性の間をしっかりと結びつける。国民が選挙で選ばれた政策決定者の選択に発言権を有し,自由なメディアを通じてみずからの見解を表明することができ,政府の活動に関する情報に自由にアクセスできるとすれば,資源がもっと生産的に使用される可能性がある。
貧者に権力を与えることそれ自体が,貧困を克服する手段である。それは,どこか遠く離れた中央から支給される援助の無力な受領者にとどまる場合よりも,自分の生活をコントロールする遙かに大きな可能性を貧者に与える。インドのアンドラプラデシュ州の場合をとってみよう。ここでは,村の女性たちがみずからを自助集団に組織して,自分たち自身の資源を利用しながら,信用や情報,技能や技術に対する要求の高まりにみずから応えることができるようになった。同じように,カンボジアのセイラ計画では,地方の地域社会が自身の貧困対策プロジェクトを制定するよう奨励されている。ガーナでは,地区当局が貧困削減プロジェクトのために独自に資金を集めている。ウガンダでは,政府が中央,地方レベルの予算手続きの透明性を高めて,国民の広範な参加のもとに貧困削減プロジェクト「貧困絶滅計画」を制定しようとしている。
こうした例は,最も貧しい国の指導者がガバナンスの改善を通じて貧困を直接攻撃する力を手に入れたことを示している。権力と権威の分散化や土地改革の推進,地域社会の連帯の奨励,独立した市民社会組織の登場など促進することを通じて,各国政府は事態を変えることができる。
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